メンタルヘラクレス〜12の錠剤〜

気持ちを整理して記録します

メモ コミュ障なりに頑張ってきた結果

お酒を飲むと逆立った神経が和らぐのでいいです。酔ってる楽しい状態でこういう思考を垂れ流すのもあまり自分にとって適切なことでもないかもしれないんですが、一旦整理しておきたいので自分用にメモします。

 

 

私はASD傾向にあるとなどの心理検査で指摘されたのですが、「言語性IQが高い数値の割には、コミュニケーションの分野が苦手」だそうです。これはツイッターの投稿を抜粋した内容なのですが、

 

『会話していて「なぜこう言うと怒る?」「なぜそこで笑う?」「何が主語?」「何が言いたいの?」(逆に定型にはこちらがそう思われている)のような疑問が絶えなくて必死に本や演劇やテレビを通してコミュニケーションを学んでいたが実際にトライアンドエラーを繰り返さないとコミュニケーションは学べないと分かった。だんだんと相手の立場を把握して会話をパターン化し分析することで定型の考えや反応を真似できるようになったが、どんなに頑張っても擬態し演じるに過ぎないので、だんだんと精神をすり減らしていった』というものなんですが、そんなに共感を得られないと思います。でも、みんな自然と学んでいくものなのかな?とも思っています。

 

 

ASDの傾向だと思うのですが、『私、面白くなくても自然に笑う、相手の目を見つめる、声のトーンを意識して表情を変える、誰か発言したそうな人はいるか、その場では無視すべき論点や文法の間違いを無視する事、性質から鑑みてその人はどういった思想からそう感じるのかを推測する。考えつくだけでこれだけの事が癖になっていて』、物心ついたうちからそう意識し始め、今ではもう染み付いていますが、学んで自然にそう振る舞えるようになったというよりは人と話す際に「そういうスイッチが入る」という感覚なんですね。神経を張り巡らしてしまって、非常に疲れる。しかも、とりわけ賢いというわけではないので、分からないところもたくさんあるんです。そんな生き方を20余年してきたら精神がおかしくなってしまって今では精神薬がなければ生活できないしかかった病院では様々な病名をつけられてはっきりとせず今はマイナートランキライザーメジャートランキライザーリーマスコンサータを服用しています。

それでいて、結局人と深い仲を構築するのはほぼ不可能でした。私が友人と思って接している人間は何人か居ますし、理解のある恋人もいますが、言語によるコミュニケーションのみで築き上げた人間関係はないです。そして、何気ない言動により崩れた人間関係は200以上に及ぶと思います。

 

コミュニケーションの訓練、例を挙げますと

『徹夜してすべらない話観て、一生懸命、芸人の笑い声と笑った部分の発言を照らし合わせて一体どういう順序を経てそれが面白い話なのかとか、話の持って行き方はどうしてそうなるのかとか、盛り上げるところと通常のところの声のトーンや色の上げ下げはどのようなものなのか』とか、自分なりに考えて実践したというようなエピソードがあるのですが、高校在学時に思った通りに実践したら、友人が引いていきました。私にはたくさんの至らないところがあったようで、「すべらない話」で重要だった主語や述語が抜けていたところを指摘されまごまごしてしまったというところがありました。ずっと苦手だった「自ら会話によって面白い話を伝える」ということができないまま、途中で高校をフェードアウトしました。昔から、面白いと思ったことを親に話していても無視されるばかりだったので、私の感覚はおかしいと気づきました。

「他人が面白いと思うことが私にとってよくわからなくて、自分が面白いと思ったことが他人にとってつまらない」という感覚のズレに、そこで気づいたと思います。じわじわと感じていたことでした。

そして私は「自分が面白くて他人がつまらないだろう」と思うものを封印することにしました。そうしたら、自分が何を面白いと感じるかわからなくなった上に、他人の面白いと思わないことしか言えない人間になりました。そのころからかなり人に気を遣う人間になりました。自分がわからなくなってしまいました。それからというもの、いざ自らの意思でグループに属した時の自分の立ち位置がわからなくなり冗談の中で怒れなくなり面白くもない話に笑うという行為を楽しむだけになりました。

インターネットが盛んになるにつれ、人間性も変わっていきました。同調したい気持ちが強く出て、ネット依存的な傾向を示すようになりました。

『結局私は特異性に気づいて以来、自分が何者なのかよく分からなくなってしまって存在と感情の間でもがいていて、今でも執拗に自分と他人の答え合わせをしないと気持ち悪くなってしまう。SNS掲示板を見る、人が何を思うか確かめる。反応があれば正解だとホッとする。繰り返さないと生きた心地がしない』

考えてみればネット依存になるころから、いわばネットが使えるようになったころからあった傾向で、気づけば、こういった行為を繰り返して神経質になっては安心するというのを、物心ついたころからしていました。

 

『インターネットは実際の対話で恥をかかずとも答え合わせのできる便利な道具。かつてセックスは言葉以外において自分が間違っていないということを確認するための道具だった。アルコールや薬物や自傷は張り詰めた神経を和らげる道具で、睡眠は自分だけの間違いも正解もない安心できる世界に行く手段

今でもインターネットで私の一部を探し続けてる!生き続ける限り私は正しくないと自分にも世界にも怒りを抱く!私の一部が世界に認められていないと気が狂いそうだ!』

こういう人間になってしまったのだと思います。ツイートからの抜粋ばかりですが、かなり自分の根底にあることだと思います。とにかくスッキリしたいのでコピペ抜粋ばかりで失礼しました。こういう認識が強くあると思います。同じ気持ちの人がいないかずっと彷徨い続けないと気が済まないのです。違う人間ばかりで、それもかなり違う人間が大多数で、浮いてきたから。嫌われてきたから。弾かれてきたから。

 

今度機会があればカウンセリングの際相談したいと思います。

自分がとても嫌です。なんでこうなのか。でも、ネガティブな気持ちを肯定したくて、嫌な気持ちを否定しないで大事にしたくて、悪を抱きながら全面的に押し出して生きていたっていいじゃないか!嫌悪感を好きになったって、愛したっていいんじゃないか!って思うんです。昔からプラス的でポジティブなイメージはあまり好きではありません。むしろそれに(抱きたくない)嫌悪感を覚えます。これは後でまとめます。