メンタルヘラクレス〜12の錠剤〜

気持ちを整理して記録します

推しCPが元彼に似すぎていて怖い話

28歳。以前はよく遊び歩いていたが結婚してから家で過ごすことが多くなり、アニメや漫画や同人活動を友人と楽しんで過ごしていた中学生の頃ぶりにオタク文化に再燃し、今は好きなジャンルのBL二次創作をしている。とても平和だ。

 

しかし、その平和を揺るがすような恐ろしい符号を発見してしまった。

 

私は結婚相手と出会うまではかなり遊び歩いていて、いわゆるビッチだった。相手が描いていた理想の人であったことは勿論、貞操観念にきびしく、私の人間関係の把握を逐一怠らないまめな人間であることが、それをやめさせてくれているのであった。

それまでは、浮気もしていたし、次々と男を乗り換えていたので、人より異性との経験が多いと思う。ただ、体の関係ばかりで付き合った人数は普通より少し多いくらいかと思う。

 

それと二次創作との何が関係あるのかというと、タイトル通り今最も推しており、二次創作に励んでいたBLカップリングのキャラクターが、昔付き合っていたその恋人たちに似ているということに気づいてしまったことに恐怖を覚えたのである。

 

他人の空似ということはよくあることであろう。しかし、その枠に収めるにはとても難しいほど似ていることが恐怖を煽る。

ABというカップリングを推しているとしたら、Aは元恋人Cに、Bは元恋人Dに、瓜二つなのだ。

特定を避けるために詳しくは言えないが、彼らの職業、性格や言動、長所や短所がお互いつぶさに一致するのだ。

その元恋人2人はどちらも違ったタイプのイケメンで、髪型や顔の特徴もこの事実に気づいてからなんとなく似ていたように思う。

ただ、それだけなら二次創作する上で「こんな経験があったからこの場面の描写が具体的にできるな」と思うにとどまっていた。

何人もいる元恋人のうち2人、と思うかもしれないが、彼らに対してはとても個人的に思い入れの深く、付き合っていた期間も長かった。1人は学生時代に付き合ってはじめての同棲生活をした先輩で、中身はいわば人間のクズだった。もう1人は相手の細やかな、いわばメンヘラ的な喜怒哀楽に振り回されすぎて自殺未遂を図ってしまったくらい好きな愛憎の深い、今でも忘れられない人物だった。

 

問題は、他の人の描く二次創作を読んで発覚した。

推しCPの濡れ場、いわばエロシーンで思い出してしまうのだ。

エロにおける特徴もCとDはそっくりで、性に淡白であるとか性欲が強いとか、どんな気持ちでセックスするのかという部分までもが、とても似ているのだ。そして体が思い出してしまう。

もう一度元恋人とそう言った関係を持ちたいとは一切思っていないのであるが、もはや、私が元恋人2人に「抱き合え」と言って元恋人同士がホモセックスをしているのではないか、という幻を見てしまい、とても気持ちがこそばゆく、どんな言葉に当てはめるのが適当かわからない感覚に陥るのだ。

 

その奇妙な符号に気づいてから、これ以上推すのが怖い、と思った。

でも、この一致がきっかけでより愛情深く感じられるような気持ちにもなるのだ。

 

こういうことは、腐女子ーいや、二次創作をする遍く人の心の中でよくあることなのだろうか?現実の恋愛の話などご法度な空気のある界隈では、聞く術を持たない。

二次創作に関わらず、創作をする人々は、過去の人をあれやこれやと思い出し創作をするのだろうか……?それも、彼らに憎しみではなく好意的な感情を向けて描くことはままあることなのだろうか?

 

もう、気づいてしまったからには彼らを推し達に重ね合わせる事でしか二次創作ができないと思う。

私は自分のあまり良かったとはいえない過去を、このように推しに被せていいものなのだろうか?

寧ろ、運命としてそのCPを推しつづける要因にしてもいいのだろうか?

 

過去の人を美化する事は、今の相手にとって浮気とならないだろうか?

 

 

など、いろいろ考えてしまう。

 

過去の人を思い出し続けながら推しCPを推しつづけることが、心に良いことなのであれば続けたい。そのCPを愛しているから。

でも、過去と決別すべきで掘り起こさないようにした方が心理的にいいのなら、やめてしまおうか、と思う。

 

とても気持ちが揺れている。これをクソデカ感情と呼ぶのだろうか。その事に気づく前から推しには謎の感情があって、普段二次元で好きになるタイプと違っていて、でもなぜそんなに好きなのか理解ができなかったのだが、それがやっと腑に落ちた気持ちでいる。しかしそんな事実に直面してしまいとても複雑だ。

 

今さっき気づいたばかりの気持ちなのでうまく整理して説明することができないのだが、とてもモヤモヤしている。

 

オタクの皆さんにはこんな経験があるのでしょうか。

そうだとしたら、どうすれば良いのでしょうか。

季節の変わり目がそうさせるのだろうが、

この夏はクーラーのかかった涼しい部屋であくせくと動いていた。

試験勉強、2次創作にリモートワーク、仕事では新しいプロジェクトのミーティングなどをこなした。

勤怠管理を見ると、例年夏は調子を崩していてあまり自由に動けていないことが多かったのだが今年の夏は別だった。

 

うろ覚えだが、人は専念すべき3つの事を持つとうまく動ける、という話を聞いた。

ひとつがうまくいかなくなっても、もう2つにすがれるため気持ちが潰れないで済む、

2つだけだとどちらもだめになりやすく、4つ以上あると手につかないからというバランスの取れたタスクの数だという。3つというのは。

 

私は週数回の適量の仕事、勉強、2次創作を3つの柱として週のルーチンをこなしている。

それがこの夏はなかなかうまく噛み合っていたのだ。

仕事をこなしつつ、仕事のない日は日中試験勉強に取り組み、夜は創作で一日一枚絵や小説や漫画を描くというバランスがとてもうまく取れていた。

 

鬱がひどく、社会復帰のリハビリも兼ねて雇っていただいた職場で「主体性が出てきて、調子も良くなってきたね」と言われた。

私自身も以前よりずっと調子良く楽しく仕事に取り組めていたし、やりたいことも少しずつできてきた。おおむね快方に向かっているのではないかと思う。

創作と勉強の日々に行き詰まると、息抜きとして仕事がしたくなる。そもそも仕事を息抜きと捉えられるのは元気な証拠にほかならないだろう。

 

体調も相まって絶妙に歯車が噛み合っている毎日も、気分の躁鬱に連動して波がある。

9月を迎えてから、どうも調子が悪い。

創作がなかなか思うようにできず、あまり進んでやりたいと思わない日が出てきたし、勉強の方は難関資格の二次試験の単元に差し掛かって毎日涙が出そうなほどわたしには難しく耐え難い行為になりつつある。

 

日々、安定剤でごまかしてやっと。それでも無理な参考書の上に顔を埋め虚無を貪り、日がなTwitterのアカウントを横目で反復横跳びして夕暮れと共に酒を入れる。

そんな事が増えてきた。

 

わたしは粘り強く執念深い方ではあるが、不条理に抗うほどの青春はもうとうにすぎているので、もう受からなくてもいいや、と考え始めた。

諦めているわけではないが、受かっても落ちてもどちらでもいいや、と甘く捉えるのをやめた。ここで思いつめすぎなくなったのはいいことでもあるが、確かな老いである。

 

昨日までしばらくなにも食べられず、屍のようだった。とりあえず体を起こしてすごしていて、以前のように寝て過ごす事が減ったことだけを褒めている。

予定に入っているからここは踏ん張りたい、と思い今日は仕事に行った。顔色が悪いと言われた。どんなに明るく取り繕っていても、体調はすぐ顔に出る。

不安定な気候が影響しているのだろうか、と話をした。そうだといいな、と思った。

なんとか日々の憂鬱感をうまくやり過ごせたら、今はそれだけを考えている。

Twitterやめてよかった

Twitterを辞めてよかった。

本当は、辞めていないし、1日に3時間くらいはみているし、TLにしょっちゅう張り付いているし、頻繁に気持ちをpostしている。アカウントも5つくらいある。

辞めたというのは、大きなアカウントのことだ。

意見発信・収集用、というか、いろいろなユーザーを集めた300人ほどフォローしていたアカウントを辞めてよかったということだ。

そして、またこちらもフォローが400ほどいるのだがそのオタク活動用アカウントは事情があって消せないため、基本的にアプリからはログアウトしている。

 

今運用しているのはフォロー30程度の日常垢、50程度の別ジャンルオタク垢、30程度の勉強垢のみだ。

TLの流れがゆるいことでTLに張り付く時間が劇的に減って、フォローの一人一人の気持ちを考えられるようになった。人数が多くなると、ひとりひとりのことに気づきにくくなる。いわば、ただの群れに見えてきて相手が人間だということを忘れてしまい、気が強くなってしまうのだ。

そして大きいのは、声の大きな人の意見(特に世論や討論、物申す系ツイート)をほとんど目にしなくなったことで、精神への影響がかなり良くなった。

 

今は私はとても小さな世界で生きている。

たとえば絵を投稿しても前みたいに拡散されて100以上のいいねをされるようなことはなく、せいぜい10いいねくらいだ。

でもPixivに投稿してみると、Twitterで100いいねの絵も10いいねの絵もほとんどブクマ数は変わらない。つまりそういうことだったのだ。

Twitter上の評価が虚栄ということが身に染みるようにわかり(もちろん反応をくれた人のことは大事にしている、ただ、フォローを増やしたから多く評価がもらえているということ)、自分はこんなもんなんだ、と卑下することもなくそのままの自分を認められるようになった。

そして評価を稼ぐために媚びるような絵を描くこともやめられて、自分の本当に描きたいものが欠けているような気がする。

 

やめた頃は、情報中毒状態だったし、評価依存状態でもあったから、しばらくとても息苦しかった。

ただ、1ヶ月たった今では前よりも等身大の自分をそのままに認められるようになった気がするし、自分はいろんな人に発信されるべきみたいな呪いが消えた。

小市民でいいんだ、と思えるようになった。

普通に勉強して、仕事に行って、余暇で好きな絵を描く、推しを推す。それだけで充分楽しいのだと気づいた。

 

それと関係があるか分からないが、それから少し調子も良くなったような気がする。

仕事に行く前の強迫がなくなり、元気になったねと言われるようになった。

メンタルの調子は確実に良くなっているので、これが寛解だといいな、とは思うが2型躁鬱病の躁は普通の人とほとんど変わらない、いわば今の状態がそれだと思うので、また落ちるのが怖い。

調子の良い間無理せず日々の自己研鑽と遊びをマイペースに続けていければ良いと思った。

今すごくメンタルが安定している。

気持ちが溢れてくる

Twitterのアプリを消して、アカウントも消したが他のアカウントでTwitterを眺める時間はやはり長くて、作業していてもついついながめたり、ツイートしてしまう。

いい影響もあった。あまり怒りの感情が湧かなくなった。でも今のところ感じるのはそれくらいで、ひたすら自分の内面やその他の事柄に夢中になり物事を考えることは全然やめられない。

でもそれはSNS中毒だったことから来ているのではなく、幼い頃から。

ずっと気持ちが溢れて止まらないのだ。

こればかりはどうしようもなくて、普通に感情が抑制できる他の人たちはすごいなと思ってしまう。

ついつい何か考えて言葉にしてしまう。頭が忙しいのはいつものことだ。きっと生まれつきだ。いつも何かに執着している。それも生産性のないことに。

生産性のある何かに集中できた試しがない。

どうしてこんな人間なんだろうと思う。

いつも思う。そんな自分がずっと嫌だ。面倒臭いからだ。

自分語りなら無限にできる。でもそんな自分語りなんかやめてもっと創作や仕事などにエネルギーを割きたいし、本当に嫌だ。

もっとシンプルに生きたい。

なんでこうなってしまったんだろう。

育ち方が悪かったわけではないと思う。本当に幼児のころからこう言う癖があったから。

Twitterのアカウントを消した話と自分語りについて

最近、つとめてTwitterへの依存が激しかった。

わたしは基本的にプッシュ通知の類は切っているのだが、逆にそれが依存を促していた。

通知が来るまでずっとリロードし続ける。つまりTwitterのアプリを開き続けていることになるのだ。

iPhoneの自動でスクリーンタイムを計ってくれるシステムでは、一日平均8時間はTwitterを開いていることになっていた。

私は12時間近く寝るので、一日のほとんどをTwitterに依存して過ごしていた。そんな生活が半年以上続き、エスカレートしていった。

 

人の意見が自動的にだらだら流れてくるツールが私は大好きなようで、Twitterを始めた高校生以前はずっと匿名掲示板のROMに徹していた。

週に一度は学校を休み、布団で寝たフリをしてガラケーからずっとスレッドをながめていたのだ。

読書は内容が連綿と続いているためある程度の集中力が必要となるが、掲示板やSNSは短文がダラダラと流れてくることから、それが必要なく疲れることもなく見ていられる、情報が入ってくるのが気持ちがいいのだ。

自由な時間が増えた自分は「とにかくラクして報酬系を満足させる」ことに傾倒してズブズブに依存していった。

本来のやりたいことをやるのに力をさくより、ラクな上に、Twitterでは自分の徒然思ったことを簡単に考えなしにツイートでき、それが誰かに見られることによって認められたと思い込むことができるから、気持ちがいいんだと思う。

だから、それを満足させるために発言の内容もエスカレートしていった。過激なことを思わなきゃ、怒らなきゃ、と自然と気持ちが荒んで行った。ほんとうによくない感情の使い方だと思う。

何もないところから負の感情を無駄に増産させていたし、それが心地よく感じることじたい不健康であるのに、やめられないのはチキンレースのようで楽しいからだ。

 

やめたい、やめたいと思っていたものの簡単にはやめられず、それで本来やりたい仕事や趣味に打ち込めなかった。だから無理やりアカウントを消し、携帯のアプリも消した。

いつまで我慢できるだろうか。

今は手持ち無沙汰感がすごくて、ぽっかり穴が空いたような気持ちだ。精神的落ち込みも激しい。

また、携帯を持つ前の、小学生の頃抱えていた人間との精神の関わりが希薄であることへの虚無感を覚えながら生きていかなきゃいけないのか、と虚しくも思う。

人に自分の負の気持ちを知って欲しい、という感情は幼い頃から持っていた、もはや生まれつきの性格だから直せないものだとも思うし。

隙自語という言葉があるが私は自分語りが大好きで誰よりも自分のことを知って欲しいという自負がある。そんな自分を治していきたい。

またカウンセリングに通おうと思う。

ツイッター絵描きのいいねバイアスは才能を潰す

絵が上手く描けなくなりました。簡単な絵も、ペン入れの時点で上手くいかなくなってしまいます。骨を描いては消して、描いては消してを繰り返しています。

上手く描けないのはきっと理想と実力の解離なのですが、ツイッターのつながりのいいねに一喜一憂することになって疲れを感じるようになってしまったのが原因だと思います。

いい絵とはなんなのか、すごく考えてしまって自分の描きたいものがわからなくなってきて、迷ってしまいます。

これを描けば人気になる!というツイッター絵描きの法則のようなものがあって、わかってはきたけれど、そのために人気なものを発信するのは如何か、と思います。自分の絵でも、好かれている傾向の絵とそうでないものがはっきりしています。でもまず、そういう即物的な、一瞬で消費されるようなコンテンツばかり作っていたらいい絵を描こうと頑張る人は減っていき、全体の絵の質が落ちていくのではないかと思って、正直怖いです。

しかしいいねをもらうことは快感であり、私は絵を通じてコミュニケーションを取りたいと思っているのでインプレッションは重要な存在です。本当に自分が好きな要素を詰め込んだ作品というのは意外とウケが悪い、ということは知っていても、いいねの数だけ正しいものを描けた証拠だと思ってしまうので、厄介です。うだつの上がらない底辺絵描きだからそう思うんですけどね。

とにかく、自分が文句言わせないほど上手く描けるようになれば実力で人気者になれるのは自明ですが、もうそんなくだらないことに一喜一憂して努力がうまくできなくなりました。

Twitterの過去ログを全てリクエストした

昔使っていたアカウントのツイート履歴を全てリクエストしてみました。なんとなく過去を振り返ってみたかったのです。

来ないな、と思ったら迷惑メールフォルダに履歴のリンクが届いていました。htmlを開くと月ごとに分けられたページが見られます。

アカウント始めたての時、どういう気持ちでやっていたんだっけ、人間関係こじらせた時どういうことをしていたんだっけ、自殺未遂をはかったときはどういう状況だったっけ。

そういうことが気になって振り返りたかったのですが、見事に特定の期間のものが断続的に消えていました。

 

黒歴史クリーナーを使った部分は復活しないんですね。そして都合の悪い部分–特に荒れていた時期のことはぜんぜんわかりませんでした。

だからあまりいい収穫がなかったのですが、あれはリプライを含むツイートが見られるのでどんな人と関わっていたのかが浮き彫りになっていました。殆どのIDは現在使用されていないか、別人になっているかでした。

 

もうあの時苦を共有した人たちはいなくなってしまった、と思いました。みんな変わっていって、なんとか人間として生きるのにいい方法を見つけていることでしょう。精神的に何も変わらない私は置いてきぼりだな、成長がないな、と感じました。

 本を読まなくなって、映画もあまり見なくなって、趣味が変わって、そういう変化はあれどまともに働けていないことや根本は何も変わっていないような気がします。

 

ただ一つ思ったのは、限りある今を大切に生きたい、ということです。無碍にせずその時間を大事にしていたいです。今あるものをとにかく守り抜くことが私のすべきことだと思います。

 

今日はこれだけです。